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2006年11月25日
2006年11月25日
2006年11月24日
生い立ち~運命の出会い その5
その後、何度か僕にも治療のチャンスをいただく事もあり、すごくありがたかったし嬉しかったのですが、僕は思い直しました。
ここに居るうちは師匠のサポートを中心にしなければ、と。
ですから自分で時間外で以前勤めた病院に行って、ドクターのケアをしながら針を打つとか、選手の練習している場所へ行ってケアするとか。
でもそれもあまり長くは続きませんでした。来年のバルセロナオリンピックへ向けて、治療院の忙しさが増してきたんです。
師匠が師匠なんで、色んなスポーツ界のトップ選手が師匠を頼ってやってくるんです。陸上競技、柔道、レスリング、競泳、シンクロ、射撃、バレーボール、ボート、競輪、テニスと、あげると切が無いくらいの種目の選手が来ていました。
そんな中、もちろんトップ選手だけではなく、他にもいろんな選手、患者さんも来るんですが、師匠はすべて同じようにしっかり治療するんです。当然の事ですが、こういう選手がたくさん来る中だと、なかなか出来る事ではありません。ホントにすごいと思いました。
その中で、印象的な選手がいました。
その人は、マラソンの有森裕子選手。彼女は91年の東京世界陸上でマラソン4位に入り、翌年のバルセロナオリンピックは有力候補にあがっていました。でもその後の残りの選考レースで、有森選手の記録を上回る選手が出てきて、さぁ、陸連は誰を選ぶのかと、国民的な大論議になったんです。
結果的には有森さんが選ばれて、皆さんもご存知の通り、オリンピックでは見事なレースで銀メダルを獲得したんです!
それはもう僕自身も自分の事のように嬉しくて、自分が少しでもお手伝いができた選手が大活躍したわけですから、夜中(明け方)にテレビでレースを見ていて、ゴールしたときは泣いちゃいましたよ。
こうやってオリンピックも終ったある日、師匠から「話がある」と言われ、治療が終った後に呼ばれたんです。
話の内容は、師匠の故郷である広島に拠点を移すことにしたので、ここから離れるという事でした。
急な話で最初は戸惑ったのですが、なぜか僕の中では、同時に沖縄へ帰る気持ちが浮かんでいました。だからすぐに受け入れられ、師匠も安心してくれたようでした。
でも・・・でも今考えると、師匠はあの時どう思っていたんだろうと、ふと考えた事がありました。もしかしたら一緒に広島へ来てほしかったのか、それとも・・・
未だに聞けていません。まぁ、今となっては・・・ね。
9月いっぱいで師匠のもとを離れ、その後一般の接骨院で短期間勤めた後、翌H5年の夏に
東京を引き上げ、帰郷しました。そしてその年の10月より那覇市で開業となったわけです。
最初は母校を頼ったり、競技場へ出向いてチラシを先生方に配って歩いたりして宣伝です。
もうとにかくやるしかないって感じでスタートしました。
ここに居るうちは師匠のサポートを中心にしなければ、と。
ですから自分で時間外で以前勤めた病院に行って、ドクターのケアをしながら針を打つとか、選手の練習している場所へ行ってケアするとか。
でもそれもあまり長くは続きませんでした。来年のバルセロナオリンピックへ向けて、治療院の忙しさが増してきたんです。
師匠が師匠なんで、色んなスポーツ界のトップ選手が師匠を頼ってやってくるんです。陸上競技、柔道、レスリング、競泳、シンクロ、射撃、バレーボール、ボート、競輪、テニスと、あげると切が無いくらいの種目の選手が来ていました。
そんな中、もちろんトップ選手だけではなく、他にもいろんな選手、患者さんも来るんですが、師匠はすべて同じようにしっかり治療するんです。当然の事ですが、こういう選手がたくさん来る中だと、なかなか出来る事ではありません。ホントにすごいと思いました。
その中で、印象的な選手がいました。
その人は、マラソンの有森裕子選手。彼女は91年の東京世界陸上でマラソン4位に入り、翌年のバルセロナオリンピックは有力候補にあがっていました。でもその後の残りの選考レースで、有森選手の記録を上回る選手が出てきて、さぁ、陸連は誰を選ぶのかと、国民的な大論議になったんです。
結果的には有森さんが選ばれて、皆さんもご存知の通り、オリンピックでは見事なレースで銀メダルを獲得したんです!
それはもう僕自身も自分の事のように嬉しくて、自分が少しでもお手伝いができた選手が大活躍したわけですから、夜中(明け方)にテレビでレースを見ていて、ゴールしたときは泣いちゃいましたよ。
こうやってオリンピックも終ったある日、師匠から「話がある」と言われ、治療が終った後に呼ばれたんです。
話の内容は、師匠の故郷である広島に拠点を移すことにしたので、ここから離れるという事でした。
急な話で最初は戸惑ったのですが、なぜか僕の中では、同時に沖縄へ帰る気持ちが浮かんでいました。だからすぐに受け入れられ、師匠も安心してくれたようでした。
でも・・・でも今考えると、師匠はあの時どう思っていたんだろうと、ふと考えた事がありました。もしかしたら一緒に広島へ来てほしかったのか、それとも・・・
未だに聞けていません。まぁ、今となっては・・・ね。
9月いっぱいで師匠のもとを離れ、その後一般の接骨院で短期間勤めた後、翌H5年の夏に
東京を引き上げ、帰郷しました。そしてその年の10月より那覇市で開業となったわけです。
最初は母校を頼ったり、競技場へ出向いてチラシを先生方に配って歩いたりして宣伝です。
もうとにかくやるしかないって感じでスタートしました。
2006年11月23日
2006年11月23日
2006年11月22日
2006年11月20日
生い立ち~運命の出会い その4
それから年月が経ち、無事にカイロプラクティックの学校を卒業し、針灸マッサージの学校も卒業、資格も取得して、やっとのことで師匠のいる治療院に入社というか、弟子入りです。
もちろんそれまでもずっと通い続けていましたし、勉強の場も与えてもらいましたが、どうしても傍にいて技術が学びたかった、いや、技術だけじゃなく「生き方」が学びたかったんです。
「今この人から離れたら、俺は何しに東京まで出てきたか意味が無くなる」
ホントにそう思いました。だからできるだけ傍にいながら、針、マッサージの技術はもちろん、選手・患者さんとの会話やちょっとした仕草まで、何でもいいから見て聞いて盗もうと思って仕事をしていました。
弟子入り修行し始めた翌年(H3年)に、僕も結婚し、ますます頑張らなきゃと思いを強くしたある日、体調に異変が……
ある朝、通勤しようと駅に向かうと、下っ腹に痛みが出たんです。最初は単なる腹痛で、冷えたかなんかで下痢したかなと思うくらいでしたが、でもそれがずっと続いたんです。
3日目だったと思います。朝出勤前にお腹が痛くなりトイレにいくと、なんと便に血が混じってて!ビックリもしたんですが、仕事にも行かなくちゃならなかったから、そのまま出勤のため駅まで向かいました。
電車が走り出すと、またお腹が締め付けるように痛くなり、最寄の駅で降りてトイレへ駆け込み、やっぱり血が混じってて・・・。メマイもしてきて息も荒くなり、体から力が抜ける感じもしてきたので、その日は師匠に電話して、仕事は休んでしまいました。
こんな症状がひどく出たり、軽く出たりを繰り返したんで、思い切って病院で診てもらうことにしました。
肛門からカメラを入れる大腸鏡という検査をしたところ、赤いポツポツした炎症部位が見つかり、それを少し摘み出して組織検査へ。
数日して検査結果を聞きにいったんですが、組織検査はとりあえず悪性ではなく、良性でした(ホッとした)。
カメラの検査の結果も問題なく、ホントに安心しました。その時診察してくれたドクターは、僕が以前勤めていた病院でもあり、よく知っている先生だったので話しやすく、気軽に「じゃぁ原因はなんだろう?」と聞いてみたんです。
すると先生は「これはおそらく、通勤時ストレス症候群なんじゃないかと思うけど、思い当たらない?」
というんです。
どうやら仕事のストレスが、こういう症状を出すらしく、毎日同じ事の繰り返しでいると、人によってはこういう症状が出て、ひどくなると入院まですることもあるというんです。
実は・・・・僕には少し、いやかなり思い当たる質問でした。たしかに師匠のもとに弟子入りし、就職したわけでしたが、資格を取得した事もあり、徐々に自分でも治療がしたくなり、仕事をしていても任された選手のマッサージ、リハビリ以外にもやらなくてはいけなかった師匠のサポートを疎かにすることもありました。
その矢先で出たこの症状だったんで、「あぁ、罰が当たったのか・・・」とか思ったりしてましたが、それをストレスにしてしまい、自律神経のリズムを狂わせてしまったようです。
ドクターからのアドバイスは
「今の仕事の赤嶺君の代わりはいるの?」でした。
その言葉を聞いたときにハっとしたんです。「僕はなんて事を考えてたんだ・・・」そう思うと自分が情けなくて、泣きそうでした。
「僕がいなくなると、師匠は困るじゃないか。ただでさえ忙しい師匠が倒れてしまっては選手が困ってしまう」
「僕がやらなきゃ誰も出来ない。僕にしかできないんだ」
そう思った次の朝から、もう腹痛も下痢も症状は消えてしまって、それどころか心底元気があふれているんです。(今では笑い話になりそうですよね)
人は不思議というか、単純だな。
思い方一つで、こんなにも体の状態が変わるんだと、あまり体験はするものではないと思いますが、ホントに自分の身をもって良い体験をしたと、今では思えます。でも、あの時はそれで師匠には迷惑をかけたので、ホントに申し訳なかったです。
つづく
もちろんそれまでもずっと通い続けていましたし、勉強の場も与えてもらいましたが、どうしても傍にいて技術が学びたかった、いや、技術だけじゃなく「生き方」が学びたかったんです。
「今この人から離れたら、俺は何しに東京まで出てきたか意味が無くなる」
ホントにそう思いました。だからできるだけ傍にいながら、針、マッサージの技術はもちろん、選手・患者さんとの会話やちょっとした仕草まで、何でもいいから見て聞いて盗もうと思って仕事をしていました。
弟子入り修行し始めた翌年(H3年)に、僕も結婚し、ますます頑張らなきゃと思いを強くしたある日、体調に異変が……
ある朝、通勤しようと駅に向かうと、下っ腹に痛みが出たんです。最初は単なる腹痛で、冷えたかなんかで下痢したかなと思うくらいでしたが、でもそれがずっと続いたんです。
3日目だったと思います。朝出勤前にお腹が痛くなりトイレにいくと、なんと便に血が混じってて!ビックリもしたんですが、仕事にも行かなくちゃならなかったから、そのまま出勤のため駅まで向かいました。
電車が走り出すと、またお腹が締め付けるように痛くなり、最寄の駅で降りてトイレへ駆け込み、やっぱり血が混じってて・・・。メマイもしてきて息も荒くなり、体から力が抜ける感じもしてきたので、その日は師匠に電話して、仕事は休んでしまいました。
こんな症状がひどく出たり、軽く出たりを繰り返したんで、思い切って病院で診てもらうことにしました。
肛門からカメラを入れる大腸鏡という検査をしたところ、赤いポツポツした炎症部位が見つかり、それを少し摘み出して組織検査へ。
数日して検査結果を聞きにいったんですが、組織検査はとりあえず悪性ではなく、良性でした(ホッとした)。
カメラの検査の結果も問題なく、ホントに安心しました。その時診察してくれたドクターは、僕が以前勤めていた病院でもあり、よく知っている先生だったので話しやすく、気軽に「じゃぁ原因はなんだろう?」と聞いてみたんです。
すると先生は「これはおそらく、通勤時ストレス症候群なんじゃないかと思うけど、思い当たらない?」
というんです。
どうやら仕事のストレスが、こういう症状を出すらしく、毎日同じ事の繰り返しでいると、人によってはこういう症状が出て、ひどくなると入院まですることもあるというんです。
実は・・・・僕には少し、いやかなり思い当たる質問でした。たしかに師匠のもとに弟子入りし、就職したわけでしたが、資格を取得した事もあり、徐々に自分でも治療がしたくなり、仕事をしていても任された選手のマッサージ、リハビリ以外にもやらなくてはいけなかった師匠のサポートを疎かにすることもありました。
その矢先で出たこの症状だったんで、「あぁ、罰が当たったのか・・・」とか思ったりしてましたが、それをストレスにしてしまい、自律神経のリズムを狂わせてしまったようです。
ドクターからのアドバイスは
「今の仕事の赤嶺君の代わりはいるの?」でした。
その言葉を聞いたときにハっとしたんです。「僕はなんて事を考えてたんだ・・・」そう思うと自分が情けなくて、泣きそうでした。
「僕がいなくなると、師匠は困るじゃないか。ただでさえ忙しい師匠が倒れてしまっては選手が困ってしまう」
「僕がやらなきゃ誰も出来ない。僕にしかできないんだ」
そう思った次の朝から、もう腹痛も下痢も症状は消えてしまって、それどころか心底元気があふれているんです。(今では笑い話になりそうですよね)
人は不思議というか、単純だな。
思い方一つで、こんなにも体の状態が変わるんだと、あまり体験はするものではないと思いますが、ホントに自分の身をもって良い体験をしたと、今では思えます。でも、あの時はそれで師匠には迷惑をかけたので、ホントに申し訳なかったです。
つづく
2006年11月19日
2006年11月19日
2006年11月17日
2006年11月16日
生い立ち~運命の出会い その3
出発の日、たしか今日は国体の開会式の日だ。
さて、群馬へ向かったのはいいのですが、地図も持たずに出かけたため迷ってしまい、国体会場への
表示を見つけるまでにあちこちウロウロしてました。まぁ、宿に入るでもなく、車で野宿を決めてました
から、夜遅くなっても問題はなかったんですけどね。
一晩を適当な空き地で過ごし、朝ごはんもコンビニで調達し、さぁ、いよいよ向かうとするか!いよいよ
僕らの武者修行が始まります・・・いや、始まる予定でした。
一応、自分らでこっちまで来た事を師匠に挨拶がてら報告しようと、各スポーツメーカーのトレーナーが集まっているマッサージテントまで行きました。
「先生、自分らでやってきました。これからあちこち回って修行してきます」
すると先生が、「お前らそこまでして・・・自分らで来たのか?・・・よしわかった、お前たちもここで一緒にやりなさい。ただし、バイト代はないぞ」
な、なんと、先生がここで勉強していいと言ってくれたんです。すごく嬉しかったですね。
全部のテントを回るなんて、正直受け入れてもらえるか不安だったし、ここで手伝わせてもらえたら、
師匠のやる事も見れるし、トップ選手だって見ることができる。最高の勉強の場に入れてもらいました。
さっそく入れてもらい、数名マッサージをし終えた頃、僕の方がちょっと熱っぽくて体調が悪くなってきてしまい、車に戻って休んでいました。
「あ~、せっかく仲間に入れてもらったのに・・・ちくしょう・・・」どうやら慣れない気候とおまけに車に寝泊りしたのがいけなかったみたいで、少し発熱してました。
そこへ、一緒に来ていた奴がやってきて、なんと師匠が一緒の宿に入るようにしなさいと言ってると言うんです。正直・・・助かりました。
その夜からは学生トレーナー3人と一緒の宿に入れてもらい、暖かい布団で寝る事ができました。
じつはその夜に知ったのですが、僕ら2人を入れるために、師匠ともう一人の学生トレーナーが別の
宿に移ってくれている事を知り、もう本当に申し訳なくて・・・ありがたくてありがたくて・・・絶対に足手ま
といにならないよう、明日から頑張ろうと思い、床につきました。
朝は6時からテントで準備を始め、夕方6時過ぎまでマッサージやケアをする。それを5日間繰り返すのです。たしかに大変でしたが、充実した日々を送る事ができました。
5日目の最終日、競技がほとんど終わり、後片付けをしていると、師匠から集合の合図があり、学生
を含めた僕らは師匠のもとへ向かいました。お疲れさんでしたという事で最後のミーティングだと思
い、言葉を待っていると、「お疲れさんでした」のあとに師匠から
「お前ら、赤嶺を見習え!!」 と、一喝されたんです。
ビックリした僕には「赤嶺!・・・?・・・あ、やっぱり押しかけたりしたから怒ってるんだ・・・」と、皆の前で怒られるんだと、思いました。
でも良く聞いてみると「ん?赤嶺を見習え???」僕には何の事か分からずにいたんです。
どうやら師匠は自分の後輩の学生トレーナーに対して言っていたようでした。
すると師匠は、
「赤嶺は、この場に来たくて、勉強する場がほしくて毎日のように、夜中まで電話してきて必死だった
んだ。選ばれなくてもこうやって自分で何かしようと群馬までやってきた。いつでも自分らが呼ばれる
んだというお前らとは気持ちが違うんだよ!」と、逆に褒められてたんです。
ビックリしましたし、僕のことを思ってくれていた事が嬉しくて・・・涙が出そうでした。
この国体のトレーナーのお手伝いを修行をさせてもらって、学生トレーナーともすぐに仲良くなれまし
たし、最後の師匠の言葉に勇気付けられ自信にもなりました。
「あきらめずにここまでやってきて良かったぁ」と、心の底から思った群馬国体でした。
もちろん、僕のトレーナーへの道は、今やっと始まったばかりで、もっともっと頑張らなければいけないというのも、実感した体験でもありました。
つづく
さて、群馬へ向かったのはいいのですが、地図も持たずに出かけたため迷ってしまい、国体会場への
表示を見つけるまでにあちこちウロウロしてました。まぁ、宿に入るでもなく、車で野宿を決めてました
から、夜遅くなっても問題はなかったんですけどね。
一晩を適当な空き地で過ごし、朝ごはんもコンビニで調達し、さぁ、いよいよ向かうとするか!いよいよ
僕らの武者修行が始まります・・・いや、始まる予定でした。
一応、自分らでこっちまで来た事を師匠に挨拶がてら報告しようと、各スポーツメーカーのトレーナーが集まっているマッサージテントまで行きました。
「先生、自分らでやってきました。これからあちこち回って修行してきます」
すると先生が、「お前らそこまでして・・・自分らで来たのか?・・・よしわかった、お前たちもここで一緒にやりなさい。ただし、バイト代はないぞ」
な、なんと、先生がここで勉強していいと言ってくれたんです。すごく嬉しかったですね。
全部のテントを回るなんて、正直受け入れてもらえるか不安だったし、ここで手伝わせてもらえたら、
師匠のやる事も見れるし、トップ選手だって見ることができる。最高の勉強の場に入れてもらいました。
さっそく入れてもらい、数名マッサージをし終えた頃、僕の方がちょっと熱っぽくて体調が悪くなってきてしまい、車に戻って休んでいました。
「あ~、せっかく仲間に入れてもらったのに・・・ちくしょう・・・」どうやら慣れない気候とおまけに車に寝泊りしたのがいけなかったみたいで、少し発熱してました。
そこへ、一緒に来ていた奴がやってきて、なんと師匠が一緒の宿に入るようにしなさいと言ってると言うんです。正直・・・助かりました。
その夜からは学生トレーナー3人と一緒の宿に入れてもらい、暖かい布団で寝る事ができました。
じつはその夜に知ったのですが、僕ら2人を入れるために、師匠ともう一人の学生トレーナーが別の
宿に移ってくれている事を知り、もう本当に申し訳なくて・・・ありがたくてありがたくて・・・絶対に足手ま
といにならないよう、明日から頑張ろうと思い、床につきました。
朝は6時からテントで準備を始め、夕方6時過ぎまでマッサージやケアをする。それを5日間繰り返すのです。たしかに大変でしたが、充実した日々を送る事ができました。
5日目の最終日、競技がほとんど終わり、後片付けをしていると、師匠から集合の合図があり、学生
を含めた僕らは師匠のもとへ向かいました。お疲れさんでしたという事で最後のミーティングだと思
い、言葉を待っていると、「お疲れさんでした」のあとに師匠から
「お前ら、赤嶺を見習え!!」 と、一喝されたんです。
ビックリした僕には「赤嶺!・・・?・・・あ、やっぱり押しかけたりしたから怒ってるんだ・・・」と、皆の前で怒られるんだと、思いました。
でも良く聞いてみると「ん?赤嶺を見習え???」僕には何の事か分からずにいたんです。
どうやら師匠は自分の後輩の学生トレーナーに対して言っていたようでした。
すると師匠は、
「赤嶺は、この場に来たくて、勉強する場がほしくて毎日のように、夜中まで電話してきて必死だった
んだ。選ばれなくてもこうやって自分で何かしようと群馬までやってきた。いつでも自分らが呼ばれる
んだというお前らとは気持ちが違うんだよ!」と、逆に褒められてたんです。
ビックリしましたし、僕のことを思ってくれていた事が嬉しくて・・・涙が出そうでした。
この国体のトレーナーのお手伝いを修行をさせてもらって、学生トレーナーともすぐに仲良くなれまし
たし、最後の師匠の言葉に勇気付けられ自信にもなりました。
「あきらめずにここまでやってきて良かったぁ」と、心の底から思った群馬国体でした。
もちろん、僕のトレーナーへの道は、今やっと始まったばかりで、もっともっと頑張らなければいけないというのも、実感した体験でもありました。
つづく
2006年11月15日
生い立ち~運命の出会い その2
そのあとは、白石先生も合宿の練習中を見なければいけないし、話はできなかったんですが、すぐにチャンスは来ました。
合宿が終る頃に、沖縄の指導者を対象に「スポーツ障害とリハビリテーション」というテーマで講演をし
てくれました。その講演を学生で唯一、僕一人だけ参加させてもらい、聴く事ができました。
その講演の最後に、技術指導もあったので、そこで思い切って話しかけてみました。
「僕も先生みたいな職業に興味があるんですが、どうすればなれますか?」と。
すると先生が、「そうか。なら東京へ出てきなさい。向こうでは色々なスポーツも見れるし関われるし、
良い勉強になるよ」と言っていただき、ものすごくワクワクドキドキしたのを、今でも覚えています。
さて、やりたい事が出来たのはいいのですが、もう一つ難関かと思われる事がありました。
親にどう話そうか、です。
前からお袋は公務員になってくれればと思っていました。
でももう決心していたので、思い切って話したんです。最初は考えてる様子でしたが「若いうちにしか
チャレンジはできないからね。頑張りなさい。」と、許してくれました。
嬉しかったしありがたかった。
散々迷惑かけてきて、最後にまたわがままですからね。自分が小学1年になりたての頃に親父を亡く
して、お袋が頑張ってここまで育ててくれて。
お袋の思う道には進まなかったけど、絶対に大成しようと決意しましたから。
合宿も終えてその後の自分はといえば、大学を卒業(1982年)して1年間はアルバイトで少しでも貯
金して、翌年から東京へ出てスポーツトレーナーになるための専門学校へ行こうと決め、市役所の臨
時職員をやり始めました。でもその時、アルバイトとはいえ、自分には机に向かってばかりの仕事は
無理!体を使った仕事がしたいと思い、せっかく就いた仕事でしたが辞めて、大学の先輩のやってい
るガソリンスタンドにお世話になるようになりました。そこでも大変でしたが、やりがいがありました。
そんなこんなで1年が過ぎ、いよいよ上京する時が来ました。最初は6才年上の兄貴の家に転がり
込み、5月くらいから家賃3万円のアパートを探して住み始めました。もちろんトイレは共同、風呂は
無し、銭湯まで歩いて1分という環境。それでも初めての一人暮らしという、僕にとってのお城でした。
アルバイトは病院の看護助手という良い仕事が見つかり、パラメディカルな知識を得るのにとても役
立ちました。
上京してからというと、バイトと夜間の学校の時間以外はできるだけ師匠の所へ通っていました。正直
言うと、上京してすぐに師匠のもとでバイトもできると勝手に決めてて……
当たり前ですが、そんなに甘くはなかったですね。それならと思い直し、可能な限り通いつめてやろうと。
夜には「何かお手伝いさせてください」と、遅くからでも電話したり。夜遅くといっても10、11時あたりでした。
でも良く考えると、ここは東京で沖縄ではないから、「沖縄タイム」では電話しちゃいけなかったんです
よね(汗;)。
なのに僕は、師匠に何度も何度も電話してました。でも師匠は1度も怒ったりしなくて、それどころか
話も聞いてくれてたんです。
で、けっきょく日体大の師匠の後輩にあたる学生トレーナー数名が10月の国体のトレーナーのサポートに選ばれました。
よく考えると、運動生理学やトレーニングの理論も勉強していない僕が、多少マッサージができるからといって呼ばれるわけはなかったんです……当然の事でした。
だからなおさら燃えましたね。日体大の学生トレーナーには負けるまいと!!この思いは僕の目標となり、力となりました。
それからすぐに学校の友人と話をして、二人で群馬まで出向いて、車で寝泊りしながら47都道府県
のテントを回ってマッサージやテーピングを申し出ようよ、と。
もうすぐに話は決まって、車、寝袋、テーピングテープなどの手配を手分けして準備にかかりました。
いわゆる武者修行です!いよいよ本番です!!!
つづく
合宿が終る頃に、沖縄の指導者を対象に「スポーツ障害とリハビリテーション」というテーマで講演をし
てくれました。その講演を学生で唯一、僕一人だけ参加させてもらい、聴く事ができました。
その講演の最後に、技術指導もあったので、そこで思い切って話しかけてみました。
「僕も先生みたいな職業に興味があるんですが、どうすればなれますか?」と。
すると先生が、「そうか。なら東京へ出てきなさい。向こうでは色々なスポーツも見れるし関われるし、
良い勉強になるよ」と言っていただき、ものすごくワクワクドキドキしたのを、今でも覚えています。
さて、やりたい事が出来たのはいいのですが、もう一つ難関かと思われる事がありました。
親にどう話そうか、です。
前からお袋は公務員になってくれればと思っていました。
でももう決心していたので、思い切って話したんです。最初は考えてる様子でしたが「若いうちにしか
チャレンジはできないからね。頑張りなさい。」と、許してくれました。
嬉しかったしありがたかった。
散々迷惑かけてきて、最後にまたわがままですからね。自分が小学1年になりたての頃に親父を亡く
して、お袋が頑張ってここまで育ててくれて。
お袋の思う道には進まなかったけど、絶対に大成しようと決意しましたから。
合宿も終えてその後の自分はといえば、大学を卒業(1982年)して1年間はアルバイトで少しでも貯
金して、翌年から東京へ出てスポーツトレーナーになるための専門学校へ行こうと決め、市役所の臨
時職員をやり始めました。でもその時、アルバイトとはいえ、自分には机に向かってばかりの仕事は
無理!体を使った仕事がしたいと思い、せっかく就いた仕事でしたが辞めて、大学の先輩のやってい
るガソリンスタンドにお世話になるようになりました。そこでも大変でしたが、やりがいがありました。
そんなこんなで1年が過ぎ、いよいよ上京する時が来ました。最初は6才年上の兄貴の家に転がり
込み、5月くらいから家賃3万円のアパートを探して住み始めました。もちろんトイレは共同、風呂は
無し、銭湯まで歩いて1分という環境。それでも初めての一人暮らしという、僕にとってのお城でした。
アルバイトは病院の看護助手という良い仕事が見つかり、パラメディカルな知識を得るのにとても役
立ちました。
上京してからというと、バイトと夜間の学校の時間以外はできるだけ師匠の所へ通っていました。正直
言うと、上京してすぐに師匠のもとでバイトもできると勝手に決めてて……
当たり前ですが、そんなに甘くはなかったですね。それならと思い直し、可能な限り通いつめてやろうと。
夜には「何かお手伝いさせてください」と、遅くからでも電話したり。夜遅くといっても10、11時あたりでした。
でも良く考えると、ここは東京で沖縄ではないから、「沖縄タイム」では電話しちゃいけなかったんです
よね(汗;)。
なのに僕は、師匠に何度も何度も電話してました。でも師匠は1度も怒ったりしなくて、それどころか
話も聞いてくれてたんです。
で、けっきょく日体大の師匠の後輩にあたる学生トレーナー数名が10月の国体のトレーナーのサポートに選ばれました。
よく考えると、運動生理学やトレーニングの理論も勉強していない僕が、多少マッサージができるからといって呼ばれるわけはなかったんです……当然の事でした。
だからなおさら燃えましたね。日体大の学生トレーナーには負けるまいと!!この思いは僕の目標となり、力となりました。
それからすぐに学校の友人と話をして、二人で群馬まで出向いて、車で寝泊りしながら47都道府県
のテントを回ってマッサージやテーピングを申し出ようよ、と。
もうすぐに話は決まって、車、寝袋、テーピングテープなどの手配を手分けして準備にかかりました。
いわゆる武者修行です!いよいよ本番です!!!
つづく
2006年11月14日
生い立ち~運命の出会い
ちょっと自分の事を書いてみたいと思います。
もしかしたら同じ道を目指している若い方のヒントになるか・・・な?
僕がこの道に入った切っ掛けは、大学時代までやっていた陸上競技があったからです。あれは忘
れもしない、昭和56年(1981年)3月の大学4年になる前の春のこと……。
その前に、僕は大学1年から200mで自己ベストが出たり、つねに上位に入る成績を修めていたの
ですが、2年3年と成績も上がらず、あまりパッとせずに過ごしていたんです。
「このままじゃいけない。来年は大学最後の年・・・よしっ!」と、一大決心!この冬にしっかり練習し
て、来年は絶対に県記録を破るぞ!!と取り組み始めました。
順調に練習を重ねて、むかえた翌年の春(昭和56年)、アクシデントが…練習中左足首に激痛が走
ったんです。翌日病院へ行き、診断は……「関節ねずみ」当時言われた事は、「離断性軟骨炎」とい
われ、疲労から関節内に石灰沈着で米粒くらいの軟骨ができ、それがチョロチョロ出てきて悪さする
んで、関節ねずみと言われるようです。もう痛いなんてもんじゃない。ひどい時は足を地面に着けるこ
ともできない。何でもない時はいくら走っても平気だけど、突然激痛で走れなくなる・・・その繰り返しでした。
けっきょくそのケガで9月までのほとんどを補強練習で過ごしたんですが、その間にチームの役に
立ちたいと思い、スポーツ障害の勉強を自己流ですが書店で本を読んだり図書館で調べたりしてました。
そんな時、陸上競技の6月号の月刊誌に「アメリカ式運動療法」というタイトルで、ある一人のスポー
ツトレーナーの記事が掲載されたんです。「アメリカ式かぁ。さぞかしすごいんだろうなぁ」そう思いな
がら、その記事で紹介されていた補強、リハビリも見よう見まねで皆に試したりしてました。
そんなことをしながら自分の足ですが、10月に入ってすぐに、良い針治療の先生がいるという話が来
てすぐに通い始め、すると治療を始めて3日目にはほとんど痛まなくなり、1週間目には軽く走っても
痛くなくなりました。こんなに早く効くなんて、もうビックリでした!(半年くらい経っていたので、時期的にも治まってくる頃だったかも)
なんとか11月の県民体育大会には間に合って、最後に走ることが出来て100mで4位、200mで3位という成績で競技生活を終える事もできました。
まだ卒業後もどうするかはっきりと決めていなかった僕は、そのまま皆と練習はしていました。そん
な12月の下旬に差し掛かる頃、たしか1984年のロサンゼルス・オリンピックに向けてだったと思いま
すが、日本代表のオリンピック候補選手の沖縄合宿がありまして、その練習を僕のいた沖縄国際大のグランドで数日行われたんですね。
こんなチャンスは滅多に無いと思い、思い切って一緒に練習に入れてもらえないかと頼んでみたところ、快く了解してもらい、大学の陸上部の数名で参加させてもらいました。
でも……す、すごい厳しい!!く、苦しい練習の連続!!
当然の事ですが、オリンピックへ行くような選手の練習です。
やったことのない練習の連続で、しかも超ハードときた!!!!
そんなある日、ハードルジャンプの練習があり、一緒になってピョンピョンやっていると、僕の太ももにピリッと痛みが!
すぐに止めて横へ座ると、同時に脚を誰かにすぐ持たれてるんです。「えっ」と思い、見てみると、男の
人が即座に僕の太ももをチェックしている様子。「何だ?誰だ?」すると,
「大丈夫、少し脚がつったのかもね」と言いながら、少し擦ってくれました。
すると立ってみるとホントに何ともなくて、練習にすぐ復帰できました。もう一度誰だろうと、その人を見
てみると、な、なんと!「あっ!、月刊誌に載ってた人だ!」と気付きました。
そう、その方が今の僕の師匠でもある白石宏トレーナーでした。
つづく
もしかしたら同じ道を目指している若い方のヒントになるか・・・な?
僕がこの道に入った切っ掛けは、大学時代までやっていた陸上競技があったからです。あれは忘
れもしない、昭和56年(1981年)3月の大学4年になる前の春のこと……。
その前に、僕は大学1年から200mで自己ベストが出たり、つねに上位に入る成績を修めていたの
ですが、2年3年と成績も上がらず、あまりパッとせずに過ごしていたんです。
「このままじゃいけない。来年は大学最後の年・・・よしっ!」と、一大決心!この冬にしっかり練習し
て、来年は絶対に県記録を破るぞ!!と取り組み始めました。
順調に練習を重ねて、むかえた翌年の春(昭和56年)、アクシデントが…練習中左足首に激痛が走
ったんです。翌日病院へ行き、診断は……「関節ねずみ」当時言われた事は、「離断性軟骨炎」とい
われ、疲労から関節内に石灰沈着で米粒くらいの軟骨ができ、それがチョロチョロ出てきて悪さする
んで、関節ねずみと言われるようです。もう痛いなんてもんじゃない。ひどい時は足を地面に着けるこ
ともできない。何でもない時はいくら走っても平気だけど、突然激痛で走れなくなる・・・その繰り返しでした。
けっきょくそのケガで9月までのほとんどを補強練習で過ごしたんですが、その間にチームの役に
立ちたいと思い、スポーツ障害の勉強を自己流ですが書店で本を読んだり図書館で調べたりしてました。
そんな時、陸上競技の6月号の月刊誌に「アメリカ式運動療法」というタイトルで、ある一人のスポー
ツトレーナーの記事が掲載されたんです。「アメリカ式かぁ。さぞかしすごいんだろうなぁ」そう思いな
がら、その記事で紹介されていた補強、リハビリも見よう見まねで皆に試したりしてました。
そんなことをしながら自分の足ですが、10月に入ってすぐに、良い針治療の先生がいるという話が来
てすぐに通い始め、すると治療を始めて3日目にはほとんど痛まなくなり、1週間目には軽く走っても
痛くなくなりました。こんなに早く効くなんて、もうビックリでした!(半年くらい経っていたので、時期的にも治まってくる頃だったかも)
なんとか11月の県民体育大会には間に合って、最後に走ることが出来て100mで4位、200mで3位という成績で競技生活を終える事もできました。
まだ卒業後もどうするかはっきりと決めていなかった僕は、そのまま皆と練習はしていました。そん
な12月の下旬に差し掛かる頃、たしか1984年のロサンゼルス・オリンピックに向けてだったと思いま
すが、日本代表のオリンピック候補選手の沖縄合宿がありまして、その練習を僕のいた沖縄国際大のグランドで数日行われたんですね。
こんなチャンスは滅多に無いと思い、思い切って一緒に練習に入れてもらえないかと頼んでみたところ、快く了解してもらい、大学の陸上部の数名で参加させてもらいました。
でも……す、すごい厳しい!!く、苦しい練習の連続!!
当然の事ですが、オリンピックへ行くような選手の練習です。
やったことのない練習の連続で、しかも超ハードときた!!!!
そんなある日、ハードルジャンプの練習があり、一緒になってピョンピョンやっていると、僕の太ももにピリッと痛みが!
すぐに止めて横へ座ると、同時に脚を誰かにすぐ持たれてるんです。「えっ」と思い、見てみると、男の
人が即座に僕の太ももをチェックしている様子。「何だ?誰だ?」すると,
「大丈夫、少し脚がつったのかもね」と言いながら、少し擦ってくれました。
すると立ってみるとホントに何ともなくて、練習にすぐ復帰できました。もう一度誰だろうと、その人を見
てみると、な、なんと!「あっ!、月刊誌に載ってた人だ!」と気付きました。
そう、その方が今の僕の師匠でもある白石宏トレーナーでした。
つづく


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新聞社から来年のカレンダーが届きました。もうそんな時期なんですね〜♪
今日明日は27、8℃あたりまで上がるらしい(-.-;)
沖縄での初ソロコンサートに行ってきました。
ずっと降ってますね〜
ちっちゃ!
これから県知事選挙の投票です

平田大一さん率いる。素晴らし過ぎる!
ノコギリ初体験

